【水俣芦北】川尻成美・相談役がMS講話
令和5年3月29日のモーニングセミナーでは、水俣芦北倫理法人会 川尻成美・相談役((株)川尻型枠工業代表取締役会長)が「事業承継と倫理経営」をテーマに講話を行いました。以下は、講話の抜粋です。
・私は、昭和30年1月、芦北町の漁師の長男として生まれた。両親は夫婦船といって夫婦で漁業をしていた。私は中学生の頃から両親の手伝いをしていたが、母が重病にかかって仕事が出来なくなったため、高校に行かないで、父と一緒に漁師をすることになった。
・昭和34年に水俣病が発覚して、近所にも患者の方が多数おられた。40年代になって魚が売れない状況になり、父は「漁師をさせなければ良かった」と言ったことがある。同じ地域に約60軒漁師がいたが、長男はほとんど漁師を辞めて、陸の仕事についた。現在では、専業の漁師はゼロです。
・今までどこへ行っても水俣病の問題は口にしてこなかったが、私の心の中ではいつももやもやがあり、重たい感じがしていた。
・そうした中で福岡県の親戚の人から「俺に預けんな」という方があり、私は昭和48年から丁稚として型枠の仕事の修業をすることになる。最初は、職人の制服に恥ずかしい思いもあったが、しばらくして堂々と仕事をするようになった。
・昭和53年、23歳のとき、一人前ではなかったが、辞めて帰省する。芦北町の知り合いと一緒に創業した。最初は、手間請けというかたちで、仕事を請け負った。10年後には大体落ち着いて会社を設立し、資材センターを開設することができた。金銭の支払いで苦労したこともあり、人使いは難しいというのが実感である。
・平成2年に社屋を建設した。社屋を作れば会社は危なくなる、と言われたが、アパートを併設して、家賃収入で返済できる方法を採用し、10年ほどでスムーズに返済することができた。このころから計画を立ててやらないといけないという信念をもっていた。また、新社屋が完成したことで、頑張らなければならないと思うようになる。
・平成3年に、倫理法人会に出会い入会する。ロータリークラブにも同時に入会。団体に入り、人生経験豊かな方や異業種の方から学ぶことが多かった。
・平成9年に、「正・水俣倫理法人会」となり幹事を引き受けることになる。会員企業の倒産などにより会員が減り続けた。事務局を引き受けてほしいと持って来られて仕方なく受けた。その後15年間事務局を担当することになったが、いろいろな勉強をさせていただき感謝しています。
・倫理を学べば苦労します。私は、苦労することで早く気づかせていただいたと思っている。「苦労は買ってでもせよ」と言われますが、昔の人は大事なことを教えてくれていると思う。
・平成4年にVDS(ビジュアル・デザイン)開発、CI導入を半年かけて行い、経営計画をたてることができた。有難いコンサルを紹介していただき、会社のイメージとしての基本が完成できた。
・長男が入社して15年ほど経つので、昨年9月、会社の35期目のスタートに当たり社長を譲った。創業者なのでなかなか抜けられないが、「七十にして、心の欲するところに従いて、矩(のり)をこえず」とあるので、七十歳までにはしっかり譲るつもりです。