【水俣芦北】元村久美・光の森倫理法人会専任幹事がMS講話
テーマ:「明朗があったからこそ~息子に感謝~」
令和7年11月19日(水)の経営者モーニングセミナー(MS)では、光の森倫理法人会の元村久美・専任幹事(有限会社木の花代表取締役)が「明朗があったからこそ~息子に感謝~」をテーマに講話を行いました。息子さんが4歳の時に交通事故に遭い、その責任が自分にあることの責任を負い続け、息子さんを幸せにするため一心不乱に働いてこられた事業体験に心底感動しました。以下は講話の抜粋です。

・私は68歳のときに倫理法人会の方に出会った。仕事のことでお客様と打ち合わせをしているとき、講話を依頼された。それがきっかけになり人吉市倫理法人会に入会、はじめてMSに参加した。その時の講話が盲目のヨットマン・岩本光弘氏の「苦難福門」のお話であり、私にぴったりの内容だった。そして元気なMSの雰囲気が好きになり、毎週人吉に通うようになった。それから数年して光の森倫理法人会が立ち上がることになり、場所が近いため光の森にも入会した。
・テキストである『万人幸福の栞』を開いて「すごい!」と思った。「苦難は幸福の門」これは深い意味がある、学ぶべきだと思った。ほかにも私の好きな言葉ばかりが書いてある。「正しく生きて証明できる学び」とある、やるしかないと思い、倫理を本気で学び始めた。
・私は、10代の頃は明るい性格で明るさだけが財産だった。「明朗・愛和・喜働」を倫理で学んだが、私は親からいただいて持っていた。だから、今まで生きて来ることができた。水俣高校を卒業して京都ホテルに就職した。ところが、小学生の頃から同級生の男性が、頻繁に京都へ会いに来て結婚しようと言われ続けて、21歳の時に結婚、地元の葦北郡津奈木町に帰ってきた。
・結婚してから、夫の実家の店に入り手伝っていたが、経営状態が悪くて、どっしりと重荷がふりかかってきた。若くて明朗があったから、楽しく過ごしていた。ところが、長男が4歳のとき、タクシーに跳ねられ交通事故に遭わせてしまった。水俣の病院では治療が困難であり、すぐに救急車で熊本市内の病院に運ばれた。
・息子の命は助かったが、右手が不自由で右足がびっこをひくような障碍者となった。事故の日は、幼稚園からピアノを習わせに行こうとしていたときであり、あとでピアノを習わせなければ良かったと悔い、ノイローゼのようになった。親である私の責任だとずっと思い続けてきた。その償いをしようと心に決めた。
・46歳になったとき今行っている仕事の情報がきた。最初は「そんなのいらない」と断っていたが、しなければならない羽目になっていった。ヘナという髪染めの商材が分かる人に会いたいとお願いしたら、東京から社長が熊本へ来てくれた。一目会ったその時から「この人のお役に立とう、笑顔が見たい」と思った。
・それから全国各地でホームパーティをしてヘナの良さを伝えてきた。私は一心不乱に横を振り向きもせず前に進んできた。10年間で熊本に家を建てることができた。今では息子を社員にして一緒に働いている。
・息子が30歳になったとき、私のセミナーに参加していた女性にプロポーズして息子に会っていただいたら、すぐに結婚が決まった。今では二人の孫が授かり、とても仲良く過ごしている。
・「苦難の先に女神が待っている」、「苦難は鬼の仮面をかぶった女神」、「苦難は悪魔の顔をした応援団」:これらの言葉が、私の心に入ってきた。人間は、絶対に幸せになるために生まれて来た。それぞれ生まれて来た役割のところで、障害物が違うが、それをどのように超えていくかが生きるということだと思う。
・苦難を楽しみながら生きる、そこには明朗がないといけない。家の中で暗い言葉が飛び交っていたら、誰も寄って来ないし幸せも寄って来ない。だから、家の中では女性が「お早うございます!」、「は~い、御飯ですよ!」というような明るい言葉で家族をリードしていかなければならない。
・私には、そういう明るさがあったからこそ生きて来ることができた。私の学歴と力では全国制覇はできなかった。私がしたことは、一生懸命目の前にあることを行ってきただけである。他人がどう思おうと、天のメガネに叶う仕事がしたいと思って生きて来た。他人の思っていることに遠慮して、人に合わせて生きていたら自分が誰かわからなくなる。そういう考え方をしてきたので、46歳の時に「よく頑張った!」と神様がごほうびとして与えて下さったのがヘナというネットワークの仕事だったと思っている。ご清聴ありがとうございました。


